『マリス博士の奇想天外な人生』(キャリー・マリス、福岡伸一訳、ハヤカワ文庫

1993年10月の早朝、アメリカのキャリー・マリスのもとに一本の国際電話が入ります。続いて、UPI通信とAP通信からも電話がかかってきます。
そこへサーファー仲間のスティーブが現れます。マリスは大のサーフィン好きで、この日の朝もスティーブと一緒に波乗りに行く予定だったのです。
マリスはスティーブに言います。
「オレ、ノーベル賞とってしまったんだ」
スティーブは答えます。
「知ってるよ。来る途中にラジオで言ってたから。それより早くサーフィンに行こうぜ」

本書に載っている嘘のような逸話ですが、これはノンフィクションです。そしてもちろん、マリスはサーフィンに行きます。生化学者である彼は雇われ研究者として研究所を渡り歩き、ときにはファーストフード店でバイトしたこともありました。離婚と結婚を繰り返し、職場で女性問題を始めとする数々のトラブルを起こし、ときに超常体験を語る、いわば奇行の人だったのです。
サーフィンに出かけたマリスは、結果的にノーベル賞の取材を浜辺で受けることになりました。そのため、翌日の新聞にはこんな見出しが載ったそうです。
Surfer Gets Nobel Prize! (サーファーがノーベル賞をとった!)

キャリー・マリスが1993年のノーベル化学賞を授与された理由は、ポリメラーゼ連鎖反応(PCR)法を開発したことにありました。これはDNAの複製に関する手法で、彼は恋人とのドライブ中にこれを考えついたと言います。このPCR法は、DNA鑑定を始め、遺伝子工学を大きく発展させる技術でした。と言ってもですね、僕は化学はさっぱりダメでして、詳しくはウィキペディアなどを参照頂ければと思います。ちなみに僕がマリスを知ったのは、ベストセラーになった福岡伸一氏の『生物と無生物のあいだ』ですね。これも大変面白い本です。

この『マリス博士の奇想天外な人生』も難しい話はあまり出てきませんから、僕のように化学が苦手な人でも十分楽しめるでしょう。むしろ、彼の生き方を追っていると胸が熱くなると言いますか、学界の常識に抗弁し、講演をすれば壇上から引きずり下ろされる姿はエキセントリックと言えばその通りなのですが、どこか愛おしくさえあります。

一つには彼が科学者でありながら、「懐中電灯の電池が切れてしまえば、人間は闇の中で途方にくれるしか能がない生き物である」と語るように、人間の叡智というものに懐疑的なせいもあるかもしれません。そういう人となりを表すような彼の言葉を引用しましょう。

「人類ができることと言えば、現在こうして生きていられることを幸運と感じ、地球上で生起している数限りない事象を前にして謙虚たること、そういった思いとともに缶ビールを空けることくらいである。リラックスしようではないか。地球上にいることをよしとしようではないか。最初は何事にも混乱があるだろう。でも、それゆえに何度も何度も学びなおす契機が訪れるのであり、自分にぴったりとした生き方を見つけられるようにもなるのである」。

それはノーベル賞科学者の言葉というよりも、どこかサーファーの言葉のようにも聞こえます。

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さて、今回の副読本は『100年の難問はなぜ解けたのか—天才数学者の光と影』(春日真人、新潮文庫)です。1世紀にわたって数学者を悩ませてきたポアンカレ予想。その難問を解いたロシアの数学者ペレルマン。しかし、ペレルマンは数学のノーベル賞と言われるフィールズ賞を辞退し、故郷に隠棲している。そう聞くと、僕などは「なんてカッコいいんだ!」と思うほど単純なのですが、これも難しい話はあまり出てきませんから、ぜひ一読頂ければと思います。

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