アーカイブ ‘ 2009年 5月

角川春樹句会手帖

『角川春樹句会手帖』(佐藤和歌子、扶桑社)

俳人としても著名な角川春樹が師匠となり、文芸評論家の福田和也、そして『間取りの手帖』で注目された佐藤和歌子が弟子として参加。そこに毎回、正客を迎えて句会をとりおこなう、その記録です。
角川春樹はもっぱら、正客と弟子が提出した俳句に添削を入れていきます。それは例えばこんな具合。このときの正客は北方謙三ですが、北方の〈風の音無頼の空に飛沫浴び〉という句に対して、角川は「これはなんの飛沫だ?」と北方に問います。

「波の飛沫です。風が吹いて、しかも無頼、空、と来たら、もう波しかないでょう」
「それはお前にしかわからない感覚だ。俺は〈風強き無頼の空に年逝かす〉と直した」
「『年逝かす』なんて、全然関係ないですよ。せっかくの波の飛沫の、この冷たさがいいのに、台無しじゃないですか」
「飛沫はもう放っておけ。年が逝く、というところにいろんな思いがこもるんだよ。〈後略〉」

あるいは、島田雅彦の句に対する、角川と島田のやりとり。

「〈春日向耳たぶにだけ冬残る〉、これは単純に『冬の残りし耳二つ』と直した」
「『耳ひとつ』はどうですか、ゴッホになっちゃうか」
「いや、おもしろい。だったら、〈ゴッホの忌冬の残りし耳一つ〉」

ときおり、福田氏が「それじゃあ、春樹さんの句じゃないですか」と叫ぶほど、大胆な添削です。僕がおもしろいなと思うのは、ここではそれぞれの句が「作品」としてまったく固定されていないこと。むろん、修正の入らない句もありますし、添削によっていったんは結論も出るのですが、それらの完成した句からまた新たに次の句が生み出される可能性がある。そこで思い出したのが内田樹の『他者と死者』です。

『他者と死者』の中でユダヤ教の聖典タルムードのことが書かれています。
タルムードとは、もともと口頭伝承によって語り伝えれていたユダヤ教の律法を文書化したもの。そこに後世の学者たちが注解を加えていくのですが、その注解自体にさらに注解を加えていくため、現在もなお増殖しているテクストであり、決して「決定版」を持つことがないという話です。

さらにこれは口頭伝承が本来の姿であり、文書化されたものは言うなれば「冷凍保存」された状態。このため、口頭での対話によって「解凍」することが求められます。そのときにひとつひとつの章句から多様ではあるが恣意的ではない意味が立ち上がり、つぶやき始めるとされています。その点を内田樹がこのように書いています。

「タルムードでは一つのことばが語られるためにはつねに対話者が必要とされるのはそのためである。タルムードは師から弟子へ口伝される。律法は決して凝固してはならず、つねに『フロー』の状態に維持されなければならない」

この言葉を借りれば、句会に提出される俳句もまた「フロー」の状態にあるテクストではないかという気がします。いわば、テクストが固定されないままに、その場の対話を通じて変成し、さらにそこから別なテクストを生み出す可能性を持つ。それが本来の俳句のあり方かどうかはわかりませんが、角川春樹はかなり意識的にそうしているように見えます。そこが非常に興味深いです。

それはさておき、この句会ではまじめに俳句を添削しつつも、そこに挟み込まれる与太話のさじ加減が絶妙。また、角川春樹、福田和也というアクの強い二人を、アクの強さはそのままに、それでいて魅力的に描く著者の筆力は見事というしかありません。実際、角川春樹はかなりの殿様ぶりを発揮しているのですが、読み終える頃にはそれすら愛おしく思えてきます。

また、俳句を作ったことがないという著者が、角川春樹の指導を受けるうちにめきめきと上達していく様子も見もの。そういう意味では、少しでも俳句に興味がある人なら、楽しめる本ではないかと思います。

今回の副読本は上述の『他者と死者』。この本の中で、「弟子とは師に対して絶対的な遅れを持つ存在である」という言葉が出てきますが、角川春樹はまさにその言葉をそのまま実践している、という点も興味深いです。
『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』(内田樹、海鳥社)

return top