アーカイブ ‘ 2011年 1月

100均フリーダム

『100均フリーダム』
(内海慶一、ビー・エヌ・エヌ新社)

今の日本企業の商品の中で、「よくわからないもの」はほとんどありません。例えば、スーパーマーケットやコンビニなどで、理解できない何だかよくわからないものを探してきてくださいと云われたら、あなたはかなり戸惑うでしょう。そこにあるのは、センスの良し悪しはあるものの、大半が理解可能な「わかるもの」で占められているからです。どうして、「わかるもの」ばかりになったのでしょうか。

仮にあなたがメーカーの商品開発部の社員で、企画会議の席上、瓶の蓋にサイコロがくっついた「瓶にサイコロ」を提案するとします。実用性はなく、意味もないけれど、なんか可愛いんじゃないか。いいんじゃないか。しかし、会議で提案した途端に「それは需要があるのか? 誰がターゲットなんだ? 販売目標はいくらだ?」といった質問が矢継ぎ早にあなたに浴びせられるはずです。

マーケティング活動のフィルタリングの中で、「よくわからないもの」は「わかるもの」に嵌めこまれていき、わからないままはみ出したものは排除されていきます。結果として、売り出されるものは「わかるもの」ばかりになっていく。では、ここで言う「わかる」とは何がわかることなのか? 企業にとって、それは「どれだけ売れるかある程度の予測がつく」ということです。商品に対する理解度と売上予測がイコールになっているのです。

だから、大ヒットするのか全く売れないのか不明なものよりも、そこそこでも売れるもののほうがいい。売上予測から逆算して、理解可能なものを商品開発に落としこむ。幸か不幸か、これが今の日本企業のスタンダードではないでしょうか。では、「よくわからないもの」はもう、今の時代には作れないのでしょうか。いえ、数少ない例外はあります。その一つが100均ショップです。

本書には実際の100均ショップで売られていた、不思議な商品が集められています。「瓶にサイコロ」も本書の26ページに登場します。この商品をしげしげと眺めたとき、僕にはこれがいくつもの会議といくつもの決裁印を押されて世に送り出されたとはどうしても思えません。あるいは、100均の担当者とメーカー側でこんなやりとりがあったのではないかと想像するのです。

「この間の小瓶、また追加発注したいんですわ、よろしく。それと、ついでに瓶の蓋にサイコロをくっつけたのも作ってくれない? サイコロ。いや、そうじゃなくて、サ・イ・コ・ロ。そう、サイコロね。なんでって、別にいいじゃない。なんか不都合があるの? ないでしょ。可愛いじゃん。可愛くない? まあ、いいよ、俺が可愛いと思うんだから。おたくの倉庫にサイコロ余ってないの? 無ければ何か白くて四角いのにサイコロっぽく目を描いといて。どうやって蓋にくっつけるか? それ考えてなかったな。まあ、そのへんはおたくに任せるわ。一応、デザインカンプ送るから、見といて」

実際はどうなのか知りません。でも、思わずそんな想像をしてしまうほどマーケティングが端折られています。
著者の慧眼は、これらの不思議な商品群を「フリーダム」と名付けたことにあります。よくわからないというネガティブな存在ではなく、フリーダムというポジティブな存在です。意味がないのではなくフリーダム。あらゆる解釈可能性を秘めた存在。では、フリーダムの反対語は何でしょうか。それはむろん、「不自由」です。

そのとたん、我々は今自分たちの身の回りにある商品たちがいかに不自由な身の上かということを知るのです。「目標」と「計算」と「予測」によって支配され送り出される商品たち。解釈可能性の余地はほとんどなく、送り手によって計算された「美」を、受け手もまた「美」として受け取るように義務付けられている商品たち。そこに思い至ったとき、「100均フリーダム」の商品群がじつは我々の商品観を覆すほどの破壊力を持っていることに気付くのではないでしょうか。

とまれ、小難しいことを書きましたが、実際に本書を手にとってもらえれば、愛くるしくも不可思議な商品写真の数々に思わず頬が緩みます。著者による解説文がさらにその弛緩を増幅します。職場の机に常備し、辛いこと落ち込むことがあったときに手にとれば、「まあ、世の中なんとかなるんじゃないか」と思えるはず。あるいは僕のように開発過程に想像を膨らませるという読み方も可能です。フリーダムを集めた本は、何よりも、それ自身またフリーダムと言えるでしょう。

副読本としては、千利休の本を挙げたいと思います。漁師の使っていた魚籠を花入れに使うという利休の精神は、既成の価値観をシャッフルする点において、どこかしら「100均フリーダム」と相通じるものがないでしょうか。
『利休にたずねよ』(山本兼一、PHP文芸文庫)

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