『黒い白鳥』(鮎川哲也、創元推理文庫)

今回は本格ミステリ作家として確固たる地位を築いた鮎川哲也の「黒い白鳥」です。

と、書きましたが、果たして現在、鮎川哲也の名前を知っている人がどれほどいるでしょうか。金田一耕助シリーズの横溝正史と比べ、あまりにも知られざる作家になっています。

ひとつには鮎川哲也の作品の多くが「都市」と「鉄道」を舞台にしていることが大きいでしょう。例えば、本書は昭和34年の作ですが、当時と今とでは都市も鉄道もあまりにも様変わりしています。それ故、必要以上に作品が古臭く思えてしまう。ストーリーやトリックに唸らされるだけに、これは惜しいといえば惜しい点です。

しかし逆に、僕のようなミステリマニアではない人間からすると、舞台装置の古めかしさ、往時の都市の姿はかえって興味を引きます。本格ミステリの場合、読者の注意を謎解きに集中させるため、日常風景の描写は当時の実情から大きくかけ離れてはいないと考えられますが、具体的に僕が興味を引かれた箇所を本書から引用してみましょう。

 

タイピストが手紙をまとめている間、灰原は視線を転じて窓から外を見た。日本橋の上空あたりにうかんだアドバルーンが、春物一掃の文字をさげてけだるそうにゆれている。
昔は百貨店の屋上にアドバルーンが上がっていました。消えてしまったのは都市の過密化とビルの高層化が影響しているのかもしれません。ちなみに僕の地元では昭和50年代前半ぐらいまでは見かけた気がします。

 

助手が釜のふたを音をたててあけ、石炭をシャベルですくうと、はずみをつけてなげこんだ。彼は、機関車のはげしい振動のため胃下垂をおこしているので、顔色がわるい。
これは東京から青森に向かう貨物列車の蒸気機関車です。かつては東京でも煙をもくもくと上げながら機関車が走っていたのですね。激しい振動で胃下垂を起こすというのも、どこまで医学的かわかりませんが、興味深い記述です。

 

「タクシーでいきたまえ」
課長は五百円札を一枚にぎらせてくれた。彼は電車通りで車をひろった。
課長が部下にタクシー代を奮発している場面。五百円の価値は今だと五千円ぐらいでしょうか。電車通りというのは当時都内を走っていた路面電車の軌道でしょうね。

 

八宝麺ときかされて、部長刑事はぎくりとした。解剖報告をみると、殺された西ノ幡豪輔も、死の直前に八宝麺をとったことが記入されているのである。
今では八宝麺は決して一般的なメニューではありません(作っている店もあるようですが)。ただ、小説とはいえ、解剖報告に記しているところを見ると、当時は珍しくない料理だったのかという気もします。そうでないと、検死医が「うむ、こりゃ八宝麺だ」となかなか断定できない気もするんですがね。

 

 東京に帰って一日おいた十八日の夕方、鳴海は足立の工場からバスにのって、東京駅でおりた。時計をみると約束の六時には、まだ十分ほどの間がある。彼は乗車券発売口のよこに立って、アツ子のくるのを待った。
 退社時刻のラッシュアワーはそろそろ過ぎようとしている頃だったが、それでもなお会社員の姿が目立って多かった。
これは一見、何に興味を引かれたのかわからないかもしれません。しかし、よく読むと夕方の5時50分には、帰宅ラッシュがそろそろ過ぎようとしていることが描かれています。今からすると、かなり早い時刻ではないでしょうか。僕の父親なんかも昭和40年代には、18時ぐらいには帰宅して一緒に夕飯を食べてましたね。

 

「だいぶ古いことなんですがね、ここからチッキで送りだした荷物の行先を知りたいんです」
「いつ頃のですか」
駅員はほとんどなまりのない標準語できいた。
このチッキは本書を読んでいて、まったく見当が付かなかった言葉の一つです。かつて国鉄は手荷物の輸送をしていました。それをチッキと呼んでいたようです。荷物の預かり証であるチケットが訛ったらしいのですが、詳しくはこちらを参照してください。

 

はじめのうちは臆したように無口だったが、やがて鬼貫のひとなつこい微笑に警戒がとけたとみえ、これから揚げ物のラードを買いにいくところだといった。かごのなかに油のびんが入っている。
買い物しようとしているのは家政婦なんですが、ラードを使って揚げていたということは、当時はまだサラダ油は一般的ではなかったんでしょうか。しかも、どうやら瓶を持参して、その中にラードを詰めてもらっていたようです。ちなみに鬼貫は、鮎川哲也の作品に登場する名探偵の警部です。

 

もちろん小説ですから、当時を忠実に再現しているとは言い切れませんが、作家本人もそれがある時代特有の現象だとは意識せずに書いている部分はあるでしょう。むしろ、僕としてはその無意識的な部分にこそ、当時の時代性が宿っているように感じられます。

というわけで、ミステリの読み方としてはちょっと異端かもしれませんが、核となるアリバイのトリックやそのアリバイを崩していく鬼貫警部の推理など、本格的ミステリとしては申し分なく読み応えのある作品。もっと読まれていいと思います。

51vgu52VC+L._SL500_AA300_今回の副読本はビデオ学習ということで、小津安二郎の「秋刀魚の味」を挙げます。これが昭和37年の作品ですね。鮎川哲也が書いたのと同じ昭和30年代の日常風景。それをカラー映像でご覧頂ければと思います。もちろん、岩下志麻も非常に初々しいのです。

小津安二郎監督「秋刀魚の味」(主演:笠智衆、岩下志麻)

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