親愛なるサムへ
数年前まで住んでいた場所は、自宅の近くにスナック街があった。元々、町工場が多い地域で、景気の良かった頃には、給料日ともなると、遊びに繰り出す人たちで夜の街はごった返していたという。さすがに往時の面影は既に失われていたが、それでも酒を飲ませる店はあいかわらず多かった。
仕事帰りだったろうか、ちょうどそのあたりの路地を通っていたとき、できたばかりのバーの看板が目に入った。あまりひとりで飲み屋には入らないとはいえ、なんとなく気になる感じの店構えで、スナックなどとも違うオーセンティックなバーに思えた。それでふらりと入ってみた。
カウンターの向こうには、女性のバーテンダーが二人。一瞬、やはりスナックか、流行りのガールズバーかと思ったが、背後に並んだ酒瓶の数と種類、そして白シャツに黒いパンツという折り目正しい彼女たちの服装から、どうやら正統派のバーらしいとわかった。
一方の女性は、腕っぷしの強そうなスケバン風。もう一人は気弱な感じのスレンダーな女性だった。無難にジントニックを頼み、それとなく話を聞くと、スケバン風の彼女が店長で、それまでホテルのバーで働いていたのだが、最近になって独立してこの店を開いたのだという。気弱そうな女性はアシスタントで、バーテンダーの修行中だということもわかった。
その日はそれ以上あまり話をすることもなく、サッと引き上げた。それから数日経って、また行った。バーというのは最初に入るまでは敷居が高いが、いったん店の人に顔を覚えられると、ついまた行きたくなる。最寄り駅から自宅の途中にあるなら尚更だった。
他に客がいなかったこともあって、今度は色々と話ができた。といっても、もっぱら喋っているのはスケバン店長で、僕とアシスタントの女性はふんふんと聞き役に回った。聞きながら、この店長、昔はかなりの暴れん坊だったろうなあ、というのがわかってきた。具体的な話は本人もしなかったが、鼻っ柱が強くて、喧嘩早い性格が、話の節々から伺える。では、そういう人が作るカクテルはどうかというと、さすがホテルで修業しただけのことはある腕前で、そのギャップが面白かった。
ふと思い立ってマティーニを頼んだ。007のウォッカ・マティーニを持ち出すまでもなく、シンプルながらじつに多くのバリエーションがあるカクテル。基本的なレシピに従っていても、店によってその味は微妙に違う。このスケバン店長なら果たしてどんなマティーニを作るだろうと思った。
「ジンは何にする?」
と聞かれたので、ゴードンにした。そしてマルティニ社のドライベルモット。ここまでは普通だ。
それから彼女は冷凍庫からカチコチに冷えたミキシンググラスを取り出した。たしかに冷やしておくものだが、冷凍庫に入れてあるのは珍しい。そしてジンとベルモットを計量し、ミキシンググラスに入れてステアする。おかしい。何かが抜けている。
「あら、氷は入れないの?」
「氷入れると水っぽくなるやろ。うち、水っぽいマティーニ、イヤやねん」
なるほど、氷を使わないかわりに、凍らせたミキシンググラスで冷やすというわけか。ふうん、と感心したものの、僕は内心たじろいだ。氷を入れればたしかに薄まるが、それでもマティーニはアルコール度数の高いショートカクテルだ。そこに氷が入らないと、ベルモットで多少薄まるとは言え、ほぼジンをストレートで飲むのに等しい。
〈飲めるもんなら飲んでみい〉と言われているような気がした。いわば、喧嘩上等マティーニである。
スッと差し出されたグラスをおずおずと手に取る。一口飲んだ。頭のてっぺんにガツンとくる。さすがに水で薄まっていないだけあって、強烈なアルコールがかけめぐる。が、同時に美味いと思った。もしも、マティーニの精なるものがいるとしたら、これがその一つの化身かもしれない。
「どう?」
「うん、美味いな」
それは本心だった。が、やはりキツい。しかし、弱音を吐くと負けたような気がするので、平気な顔をして飲んだ。キツい、美味い。美味い、キツい。そこから先は何を話したのかよく覚えていない。また来るわ、と片手を挙げてニッコリ店を出た後、自宅までの数百メートルの道のりがえらく遠く感じられたように思う。
それに懲りたわけではないが、僕の仕事が忙しくなって店が遠のいた。たまに入ってみようかというときでも、窓越しに見えるカウンターが客で埋まっていたりした。ようするに繁盛しているわけで、結構な話なのだが、そうこうしているうちに僕がその街を離れることになったので、とうとう店に入る機会も失われてしまった。あの喧嘩上等マティーニもそれきりになった。
以来、他の店で何度かマティーニを飲んだものの、いつも思い出すのはあの夜の一杯である。それで目の前のバーテンダーに「昔、こんなマティーニを飲んだ」という話をする。
「ほう、そんな作り方があるんですね」と興味なさそうに答える人もいれば、「それはすごい」と呆れ返る人もいた。
心やすいバーテンダーが相手なら、「ちょっと作ってみてよ」と頼んでみたいところだが、やめておいた。そもそも予めミキシンググラスを凍らせておく必要があるが、同じ手順で作ったとしても、同じ味になったかどうか。ただの氷を抜いたマティーニになったかもしれない。そう、あの一杯はあのスケバン店長が作るからこそ美味かったのだと思う。
最近になって、ふとしたきっかけであのバーがなくなったことを知った。どこかへ移転したのか。あの店長はどうしているのか。どこかの街で、腕まくりしながら、まだ喧嘩上等マティーニを作っているだろうか。

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