カテゴリー ‘ 2010年の手紙

遅ればせながら

親愛なるサムへ
遅ればせながらツイッターを始めました(@paulnakahara)。このBiglobeのサーバーもいつまで借りることになるかわからないので、アドレス変更の告知などはツイッターなどでするかもしれません。変更しないに越したことはないのですが。
ツイッターを始めておいて何なのだけど、人間、呟かずに済むなら、呟かない方が本当は幸せなのではないかと思う。「気持ちを伝えあう」とか「自分の考えを主張する」とか、そういうことが正論として流布している世の中ではあるけれど、ひとりの人間としての幸福を考えたときに、自分の気持ちを誰かに伝えなくても充足するなら、本当はそれが一番満ち足りた状態だという気がするね。
呟いたり、伝えたり、あるいは表現したりする。そういうことをしないではいられないのだとしたら、それは一種の「コミュニケーションという病い」と呼んでもいいのかもしれない。本当に幸せな人は、ただ黙ってニコニコと笑っているような気がするんですよ。あるいは、そんな幸せな人こそ一種の幻想なのかもしれない。ただ、仮想としても、幸せは他者への理解を求めないのではないか。
そういうお前はなぜこんな手紙を何年にも渡って書き続けているのかと問われたら、僕もまた「病い」に罹っているとしか言いようがないんだけど。たしか、中沢新一だったか、人間の言葉は詩から始まったと言っていた。情報を伝えるためのツールとしてではなく、詩が人間の発した最初の言葉であったはずだと。僕にはそれは何となくわかる。やはり大昔の人たちがマンモスを穫ったりするわけでしょう。上手く仕留めれば、「やったー!」と思うし、「今、俺がやっつけったの、見た?」と言いたい。だから、「荒らくれマンモス、突進するを、先祖の槍で、俺はひと突き」とか、そういう詩にしたくなるんじゃないかと思う。おそらく情報を伝えるだけなら、そんなに多くの語彙はいらないはずなのです。右とか左とか、行けとか止まれのような記号だけで間に合うかもしれない。いかに自分の気持ちを伝えるかを苦吟しだしたときに、新たな言葉が生み出される。だから、詩が言葉の出発点であったという説は、僕にはとても腑に落ちる。
今の自分の気持ちを誰かに伝えたい、という思いがクロマニヨン人の昔から始まるのだとしたら、この「コミュニケーションという病い」は根深い。その病いは我々が他者抜きでは生きられなくなった瞬間、つまり「社会」が始まった瞬間から、すでに存在していたのかもしれない。現代になっては、もはや病いとすら呼べないほど、我々の血肉になっている。
ただ、改めて言うけれど、我々にとっては、他者への理解を求めず、ただ黙ってニコニコとしていられる方が本当は幸せなのではないかと思う。それは社会が始まる以前の、何も考えなくても生きていられた頃の、素朴な幸福感ではないかと思う。
2010年9月21日 火曜日

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