カテゴリー ‘ 2012年の手紙

ときどき夜中にふと目を覚まし

親愛なるサムへ
ときどき夜中にふと目を覚まし、ついでに台所で麦茶を飲むのだが、暗闇の中で飲む麦茶はなぜあんなに美味いのだろうと思う。
時刻は午前3時ぐらいがちょうどいい。あまり早い時間だと、夜中に目が覚めたという感覚に乏しい。寝入りかけて上手く眠れなかったような焦りも伴う。かといって、空が白み出してしまうと夜中とは言えない。いっそ、このまま起きていようかと悩んでいるうちに、新聞配達のバイクの音が聞こえると、これはもう朝だ。タイミングを逃している。つまり、夜の底にいると思わせる感覚が大事なのであって、それにはやはり明け方前の一番闇が深い時間帯がいい。
なぜ、目が覚めたのか。それは悪夢を見たからなのだ。体がじっとりと汗ばみ、動悸も少し早くなっている。そして気がつけば喉も乾いている。ただ、その悪夢もあまり深刻であってはいけない。来襲したエイリアンたちによって世界が滅亡に瀕した最中、全人類の命運を担った自分がエイリアンの宇宙船に潜入するものの、あっさりと捕まって拘束台に全裸で括りつけられているなどというのは、誠に壮大な悪夢ではあるけれど、壮大であるがゆえに麦茶を飲むには邪念が入り交じってしまう。「なんで、こんな夢を見たんだろう」と考えさせてしまってはダメなのだ。あくまで「なんか、悪い夢を見ちゃったな」程度であって、例えばショッピングセンターでトイレの位置がわからなくて、いつまでもウロウロと歩き回っていたぐらいがふさわしい。ついでに尿意があるなら好都合。ああ、トイレに行きたかったから、こんな夢を見たんだと納得できる。悪夢は美味しい麦茶を飲むためのスパイス程度の役割であって、「明日、誰かに夢分析してもらおう」と思わせない方がいい。
トイレに行くならトイレに行って用を済ませた後、台所に向かう。台所には常夜灯のほの暗いランプが灯っている。真っ暗ではないが、オレンジ色のかすかな光がかえって夜の底にいることを感じさせる。冷蔵庫のドアを開ける。そのとたん、封じ込められていたかと思えるほどの光が溢れ出してくる。映画などでよく、宝箱を開けると中から金貨や財宝と共に眩いばかりの光が溢れ出してくる場面があるが、あれは夜中の冷蔵庫がメタファーではないかと思うほどだ。ちなみに僕は子供の頃、ドアが閉まっている間、冷蔵庫の中は光っているのかどうかが気になった。かすかにドアを開けて中を覗きこんだり、勢いよくドアを開けて不意打ちを食らわせたりと色々試してみたが、つねに冷蔵庫の方が一枚上手で、僕が見ている最中は常に光っていた。そのうちに母親から「中のものが腐る」とこっぴどく叱られたことがある。子供の頃は変なことが気にかかったものだ。
開けたドアの内側には飲み物が詰まっている。ここですんなりと麦茶の瓶に手が伸びればいいのだが、残念ながら他の飲み物に目移りする。牛乳、サイダー、野菜ジュース、あと黒酢配合なんとかというのもある。ふと端っこに目にやると、ネクターの缶がある。缶の表面には桃のイラストも描かれていて、いかにも美味そうだ。無意識のうちに手に取るのだが、ここで思い止まる。桃のネクターも美味いことに変わりはないが、いささか濃厚すぎる。これがあまり真夜中の気分ではない。ネクターは昼間に氷を入れて薄めて飲む方がいい。手にとったネクターを再び元に戻す。サイダーはどうか。喉がシュワシュワとするのは爽快だけれど、いっぺんに飲めば胸がつかえる。かといって、チビチビと飲みたくはない。喉が乾いているのでゴクゴクと飲みたいのだ。チビチビとゴクゴクの間の胸がつかえない程度のスピードで飲めばいいのだが、それを考えるのが面倒になってサイダーは脇に置く。野菜ジュースもピンと来ない。黒酢配合なんとかも違うだろう。そうなると、最終的に麦茶と牛乳の二者択一になる。
夜中に飲む牛乳も悪くない。ゴクゴク飲める。胸もつかえない。お腹がゴロゴロすると云う人もいるが、僕はゴロゴロしない。牛乳にするかと思って手を伸ばしかけたときに、隣の麦茶の瓶に目がいく。透明なガラス瓶の中で、琥珀色の液体が冷蔵庫の光を受けてキラキラと輝いている。上の方が薄く、底の方が濃い色なのはお茶の成分が沈んでいるからだろうか。それが何とも言えないグラデーションとなって、円筒形のガラスの中に小さな海が封じ込まれているように見える。真夜中の台所ならではの輝きなのだ。今飲むのは牛乳じゃない、やはり麦茶なのだ。
よく冷えたガラス瓶を取り出し、どこかの酒屋でもらった安手のコップに、麦茶をとくとくと注ぐ。冷蔵庫のドアを締めてしまうと、台所は再び常夜灯のほの暗い世界に戻る。麦茶もすでに輝きは失っているが、僕の脳裏には先ほどの琥珀色がまだ残っている。それをゴクゴクと飲む。冷たい液体が喉を通りすぎていき、麦の香ばしい匂いが口の中に広がる。それは様々な思い出を蘇らせる。小学生の頃に熱を出して布団に寝そべったまま飲ませてもらった麦茶、友達の家に遊びに行ってスイカと一緒に出された麦茶、海水浴でひとしきりはしゃいだ後に魔法瓶のふたに注がれた麦茶。そしてやはり子供の頃、こんな夜中に起き出して寝汗をかいたまま飲んだ麦茶。
昼間の明るい光の中であれば、そんなことは思い出さなかっただろう。しかし、真夜中の眠りから覚めた、夢と現実の境のおぼろな暗闇の中で、我々は目の前にある麦茶を飲みながら、過去に飲んできた麦茶も同時に味わっている。それは烏龍茶には真似の出来ない芸当だった。サイダーや牛乳でも及ばなかった。まして、黒酢配合なんとかの出る幕はなかった。心細い真夜中にいるとき、我々はいつでも自分の中に心細さという感情があったことを思い出す。それを慰めてくれるのは爽快な気分にしてくれる炭酸飲料でもなければ、栄養たっぷりのジュースでもない。ただ、同じように心細い夜を乗り越え、自分が過去からの連綿とした時間の繋がりの中にいることを思い出せてくれる飲み物にこそ安堵するのだった。
飲み終えた頃には、もう悪夢のことなどは忘れている。そして、今飲んだばかりの麦茶と、過去から蘇ってきた麦茶の記憶でいくぶん幸福な気分になっている。時刻は3時半。明けることはないだろうと思えるほどの夜の底、僕は再び毛布をかぶって、眠りに落ちる。明日は、いや今日はどんなに一日になるのだろうか、という気持ちが束の間浮かんでくる。でも、それは闇の重力にひっぱられて再び底に沈んでいく。考える必要はないのだ。次に目覚めるときは、あの冷蔵庫の光さえ思い出せない、琥珀色の輝きさえ遠くに霞む、現実の光に包まれた朝が待っている。
2012年8月12日 日曜日

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