カテゴリー ‘ 2011年の手紙

上司の尾藤さんは朝十一時になると

親愛なるサムへ
上司の尾藤さんは朝十一時になると、決まってどこかに出かけていった。そして、夜になっても帰って来なかった。次に顔を合わせるのは、次の日の朝。どこへ行くのか教えてくれたことはない。たまに教えてくれることもあったが、それはいつでも曖昧だった。
「じゃあ、ポール、ちょっと東の方に出かけてくるから〜」
極めて曖昧だ。そもそも、僕たちの営業所があったのは、その街の中でも西の方だから、たいていの行く先は東の方にあった。
始業時刻は午前九時。営業所長の尾藤さんと事務の女性、残りは配属されたばかりの僕という状況の中で、肝心の所長が二時間後には消えて、その日はそれきり帰ってこないというのはかなり由々しき事態だった。
むろん、上司に相談することはたくさんあった。得意先から求められた見積もりのこと、案件の日程のこと、出張旅費の精算。しかし、尾藤さんがそんな有様だから、相談事を朝の二時間のうちにすべてこなさなければいけない。それも、いつも上手く行くわけではない。得意先からの電話も頻繁にかかってくる。知らないうちに忙殺されている。気がつくと、時計の針が十一時を指している。あっと思う。その瞬間、背後から明るく弾んだ声がする。
「じゃあ、ポール、今日は南の方に出かけてくるから〜」
すでに尾藤さんの身体は閉じかけたドアの向こう側にいる。ちょっと待って、まだ見積もりの相談が、と叫ぶ僕の声がゆっくりと閉じるドアにフェードアウトされ、同時に扉の向こう側でエレベーターの到着を知らせるチンという音がする。この間、約五秒。どのタイミングで声をかければいいか、いつエレベーターのボタンを押せばいいか。この一連の動きを尾藤さんはすべて計算していた。到底敵うはずはなかった。
しかたなく、僕がひとりで考え、僕がひとりで決め、後は尾藤さんに事後承諾という形で報告するしかない。尾藤さんがそれについて異を唱えたことはなかった。
「いいよ〜、ポールの好きなようにすればいいから〜」
人懐っこい笑顔でそう答えるのだが、僕の話を聞いているのかどうかすら怪しかった。いつだったか、得意先の人が「尾藤さんの声は、真剣に仕事をしている人の声ではない」と言っていた。たしかに語尾にすべてニョロ、つまり「〜」が付いている。上手いことを言うなあと思ったが、感心している場合でもなかった。
もちろん、見方を変えれば、やりやすい上司とも言える。常に部下の行動に目を光らせ、何かにつけて部下を叱り飛ばすような上司よりは、ずっとマシなのかもしれない。しかし、ここまで放任主義になると、「果たして尾藤さんは上司なのか?」という疑問が湧いてくるのも否めなかった。
たまに尾藤さん宛の用件が、僕の携帯電話に掛かってくることがあった。相手の人は「尾藤さんの電話に掛けても繋がらないから」と言うのだが、「あなたが繋がらないのに、僕が繋がるわけがない」と言いたかった。しかし、放ってもおけないので、尾藤さんに電話する。すでに日は傾きかけている午後五時。自分の仕事で手一杯の状況で、「俺もこんなことしている場合じゃないんだが」と思いつつ、何度か掛け直しているうちに、ようやく尾藤さんが電話に出る。
「なんだよ、ポール。どうしたんだよ」
少し不機嫌な声。ニョロも付いていない。妙にザワザワした場所にいる、と思ったら電話口の背後から「つくね一本!」という焼鳥屋の店員の声がする。この時間からもう呑んでいるのか、と驚くが、こういうときに「もう呑んでいるですか?」とはなかなか言えないものだ。
「竹林さんが電話欲しいって言ってます。見積もりの件で」
そう答える僕の声にかぶせるように、再び電話口の背後から「ねぎま1本!」という店員の声。続いて、尾藤さんが、
「竹林? ああ、わかったよ、電話しとくよ」
「尾藤さん、今、どこにいるんですか?」
「いいよ、いいよ、どこでも〜。じゃあ、ポール、よろしくね〜」
再び、ニョロ付き。フェードアウト。ブラックボックス。たしかに最初のうちは早い時間から呑んでいることに驚きもしたが、慣れてくるに従って気にならなくなった。尾藤さんは夕方になると呑む、という方程式が確立されたからだ。むしろ、物音ひとつせず、しんと静まり返った場所だと、目付きの悪い連中に拘束されているんじゃないかと、かえって心配になったほどだ。
ある日の午後、本社の菊さんが営業所に電話を掛けてきた。菊さんは僕らがいる営業所を統括する立場にあった。僕が電話を取った。
「尾藤さん、いる?」
「いるわけないじゃないですか」
たぶん、その日の僕は少し不機嫌だったのだと思う。尾藤さんのせいかもしれない。
「ああ、そうだよね。もう呑んでるのかな?」
「わかんないですけどね、たぶん、そうじゃないですか」
「あのさ、ポール、いろいろ腹が立つことはあると思うんだけど、尾藤さんも昔はけっこう苦労した人なんだよね。苦労したと言うか、苦労をかけてしまった人なんだよね。だから、我慢しろとは言わないけど、尾藤さんのことを少し大目に見てやってほしいんだ」
うむ、と僕は思った。なにぶん、中途で入社した僕にとって昔のことはわからないが、なんちゅう大甘なことを言っているんですか、と叫びたい気持ちと、僕の知らないところで秘かに苦汁を舐め続けてきた尾藤さんの姿が同時に浮かんだ。
たしかに僕は尾藤さんに困らされ続けてきたけれど、では、尾藤さんのことが嫌いなのかと言えば嫌いではなかった。むしろ、好きだった。憎めない人、とも違う。十分憎めるのだが、それでも好きであることに変わりなかった。我々が価値観や倫理観で人を好きになったり嫌いになったりできれば、これほど楽なことはない。
では、なぜ僕が尾藤さんを好きなのかと考えたとき、その理由はあの飄々とした姿や、人懐っこい笑顔のせいではない気がした。むしろ、尾藤さんの抱えている「陰」のようなものが僕を惹きつけている気がした。
その陰が、菊さんの言うような仕事上の苦労によるものかどうかはわからない。何か、もっと別のたぐいの陰のような気もする。人生の深淵と言えば大げさな気がするが、生きているうちに否応なく抱え込んでしまった陰とでも言えばいいだろうか。
だから、毎朝尾藤さんがどこかに出かけていくとき、僕の脳裏に浮かぶ行く先は繁華街でもなく飲み屋街でもなく、鬱蒼とした森に囲まれた湖なのだった。濃紺色の空と、灰色の森と、鉛色の湖。頭上ではカラスの群れが飛び交っている。太陽の方角は定かではない。現実世界なのかどうかすら、よくわからない。その湖のほとりに尾藤さんは背広姿でしゃがみ、黒い鞄を傍らに置いて、じっと湖面を見ている。さざ波ひとつ立てない湖はどこまでも重く、何もかも沈ませてしまう色をしたまま、カラスたちの影を映している。
そこで尾藤さんが何をしているのかは、はっきりしない。ただ、湖面を見つめ、ときおり立ち上がっては静かに湖畔を歩く。革靴の下で、ポキポキと枯れ枝の折れる音がする。石ころを掴んで、湖に投げてみることもある。石ころは水面を飛ぶこともないまま、重く沈んでいく。カラスたちも鳴くことすらしない。
尾藤さんは何かをするためではなく、ただ、ここで過ごすことが自分の務めだというようにゆっくりと時間を費やしていく。瞑想でもなく、祈りでもなく、鎮魂でもなく、この場所があることを忘れないために、この場所へ来て時間を過ごす。そんなふうに見える。世の中の深淵のような森の中。そこへ不意に携帯電話が鳴る。画面には自分の部下の名前が出ている。
「なんだよ、ポール。どうしたんだよ」
「富田さんが納期をずらしてくれないか、と言っているんですけど」
「いいよ、いいよ。俺が電話しとくから〜」
静寂を破った携帯電話を尾藤さんは背広の胸ポケットにしまう。いきなり用件だけ言いやがって、ポールも慌ただしいやつだ、と思う。飛び去っていくカラスの羽根が湖面に落ちる。いつか、ここへ連れてきてやろうか、と考える。すぐに首を振って、いやいやまだ早い、と苦笑いする。
尾藤さんはひょいと鞄を持ち上げると、背広についた枯葉を払い落とし、森の出口の方に向かってゆっくりと歩き出す。今日の時間は終わったのだ。そして明日もまたここへ来るのだ。払ったばかりの肩に、一枚枯れ葉が落ちかかるが、尾藤さんは気付かない。そろそろ、あの焼鳥屋が店を開ける頃だろうと考えている。
2011年12月11日(日)

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