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人は梅雨時に恋を

親愛なるサムへ
人は梅雨時に恋をしたりしないのだろうか。「梅雨の恋」というのは、あまり聞かない。ひと夏の恋はあっても、ひと梅雨の恋とは言わない。大体、梅雨というと麺つゆみたいな響きがある。どうも梅雨という言葉自体が語感がよろしくない。
梅雨に恋をするとしたら、どういうシチュエーションがあるか。さて、それがよくわからない。雨が降るだけならまだしも、蒸し暑い最中において、できれば他者とは距離を置きたいと思うのが人情ではないか。その距離を縮めるのが恋の力だと言われればそれまでだが、なにしろ蒸し暑い。それに尽きる。
以前、若い頃の田中美佐子と永島敏行に登場してもらって君に手紙を書いたことがある。あの話も雨が降っていたが、あれは通り雨であって梅雨ではない。しかしながら、こうなってくると、再び田中美佐子と永島敏行にご登場願うしかないようだ。なに、配役が決まれば、ストーリーがすんなり見えてくることもある。
喫茶店の名前は「まつぼっくり」としておこう。どういう経緯でそんな店名になったのかはわからない。「松」と「待つ」を掛け合わせているのか。ともあれ、そういう名前を付けるようなマスターがいる店である。そこに二十歳の頃の永島敏行が客として入ってくる。彼は大学生でこの店の常連なのだが、このところアルバイトが忙しくて店に顔を出さなかった。
「ヨッ、いらっしゃい。ひさしぶりだね」
マスターが声を掛ける。マスターは渡辺篤史にお願いしたい。渡部篤郎ではない。「建もの探訪」に出ている人である。もちろん、ちょび髭を生やしている。永島敏行はいつもどおりカウンター席に座った。
「アイスコーヒーとホットサンド。それにしても蒸し暑いね、マスター」
「梅雨が始まったねえ」
「冷房きかしなよ。今日ぐらい暑いと、付けたって罰あたんないよ」
「バカ言ってんじゃないよ。今から冷房付けてどうすんのよ」
とりとめのない話をしていた永島敏行の目の隅に、エプロン姿の店員がテーブルの後片付けをしている姿が映る。見慣れない若い女性だ。二十代の頃の田中美佐子である。年齢的には「ダイアモンドは傷つかない」に出演していた頃の田中美佐子だと思ってもらって差し支えない。
「彼女、誰? アルバイトの人?」
「ああ、みさちゃんね。永島くんにはまだ紹介してなかったけど、先月から来てもらってるのよ」
「この店、アルバイト雇うほど忙しかったっけ?」
「忙しいわけないじゃない」
「じゃあ、何でよ」
「それがちょっと変わった話でね、彼女の方から頼み込んできたのよ。いきなり店にやってきてさ、梅雨が明けるまででいいから働かせて欲しいって」
「梅雨が明けるまで? どうして?」
「それを言わないんだよ。なんか事情あるみたいだけどね。まあ、ずっと働きたいというわけじゃなし、見てのとおり可愛い子だろ。うっとうしい梅雨の季節の華やぎというのかな。それで来てもらってるの」
「ふうん」
そこに田中美佐子が下げたグラスを手にして戻ってくる。永島敏行より三つ四つ年上だろうか。学生の彼は大人の雰囲気をもつ彼女にいくぶん胸が高鳴る。
「みさちゃん、紹介しとくよ。彼、常連の永島くん」
「あら、あなたが永島くんね。マスターから話は聞いてるわ。私、美佐子っていうの。よろしくね」
優しい笑顔にお姉さん口調。彼の胸の鼓動が一気に高まる。何よりも年上の女性から「永島くん」と、くん付けされるのに弱い。いや、永島敏行の場合はどうか知らないが、僕は弱い。すっかり舞い上がった永島敏行は自己紹介もそこそこに、慌ててホットサンドを食べ終えると、逃げるようにして店を後にした。
次の日も彼は「まつぼっくり」にやってきた。昨日は逃げるようにして店を出てきたものの、やはり田中美佐子のことが気になってしまう。どうしてもっと会話しなかったんだろう。そんな後悔もよぎる。ところが、いざ店に来ると、マスターはいつもカウンターの中にいるからいいものの、田中美佐子は注文を取りに行ったり、グラスを下げたりで何かと忙しい。彼女が店で働き出してから、明らかに男の客が増えている。みんな、美佐子さんがお目当てなのだ。彼女とゆっくりと話がしたかった永島敏行はついマスターに当たってしまう。
「美佐子さんの代わりにマスターが注文を取りに行けばいいじゃない」
「バカ言ってんじゃないよ。じゃあ、誰がコーヒー淹れるのよ」
晴れた日は店も忙しいが、雨が降る日はさすがに客足も鈍る。そういう日を選んで店に行くうちに、永島敏行はだんだんと田中美佐子と話す機会が増えてきた。彼女は日本海に面した小都市の出身だということ、つい最近まで大学の図書館で働いていたが、その仕事を辞めてからは家庭教師のアルバイトなどをしていること、学生の頃から住んでいるアパートに今も一人で暮らしていること、そういう話を会話の合間にぽつりぽつりと聞いた。
ある日、永島敏行が店に行くと、カウンター席はすべて埋まっていた。前日から降り続く雨で、客は少ないと思っていたが、しかたなく彼は空いたばかりの窓際のテーブル席に腰を下ろし、注文を取りに来た美佐子さんにアイスコーヒーとホットサンドを注文した。
「ツナで良かったわね」
「うん、ツナで」
ホットサンドにハムサンドとツナサンドを用意している喫茶店は多い。これは正直、迷うところだ。「まつぼっくり」の場合はともあれ、僕の経験上、ツナサンドの方が美味い店が多い。ハムは炒めて食べる分にはいいが、ホットサンドのようにトーストに挟んで焼くような方法では、むしろツナの方が相性がいいように思う。
永島敏行がそんなことを考えながらツナのホットサンドを食べていたかどうかはわからないが、ふと窓の外に目をやると、店の中を見ている中年男の姿がある。
年の頃は五十過ぎぐらいだろうか、スーツ姿に鞄を提げて、雨の中、傘を差しながらずっとこちらを見ている。ぼんやりと見ているというより、見つめているというのに近い。企業の部長クラスという風体のまっとうな人物に見えたが、他の通行人が足早に通り過ぎていく中で、傘を差して立ち止まっているその姿はいささか奇妙だった。
永島敏行は最初、自分のことを見ているのかと思ったが、そうではないと気付いた。中年男はどうやら美佐子さんを見ているらしかった。しかし、その視線は赤の他人のものではなく、どこか親密なところがある。ちなみにこの中年男、配役は長塚京三にお願いしたい。
「美佐子さん、あの人、知ってる人?」
と永島敏行は声を掛けたが、あいにく田中美佐子は他の客の注文に気を取られて、彼の声に気付かなかった。そうこうしているうちに、中年男の姿もどこかに消え、彼の疑問はそれきりになってしまった。
次の日はマスターが店にいなかった。美佐子さんの話では、どうやらマスターの家の屋根が雨漏りしているらしく、その修理の立ち会いで小一時間ばかり抜けているという。
「あたし、困っちゃうわ。コーヒーとか注文されても淹れられないもの」
「大丈夫ですよ、美佐子さんの作るものなら何でも美味しいです」
永島敏行はホットコーヒーを注文し、あたしにできるかしらと言いながら、美佐子さんはマスターの見よう見まねでコーヒーを淹れ出した。昨日の雨は上がっているが、他に客はいない。店内には永島敏行と田中美佐子の二人だけ。彼はこれ幸いとばかりに彼女に質問した。
「美佐子さん、梅雨が明けたら店を辞めちゃうんですか?」
「そうなの。じつはあたし、来月田舎に帰って結婚することになっているのよ」
えっ、と永島敏行は絶句した。恋人がいるのかどうかはずっと気になっていたが、まさか結婚することになっていたとは。そんなことはつゆ知らず、せっせと店に通い詰めていた自分自身が彼には哀れに思えてきた。勝手な片思いとはいえ、がっくりと落ち込んだ彼は、もう話の続きには大して興味はなかったが、行きがかり上尋ねてみた。
「でも、どうしてこの店で働こうと思ったんですか? 今から田舎に帰ってもいいわけでしょう」
田中美佐子は言おうかどうしようか少し迷っているふうだったが、誰にも言っちゃダメよ、と念押ししてから話し始めた。
「あたし、昔付き合ってた人がいたのね。その人とはもう別れたんだけど、この街を離れる前に、もう一度彼に会いたくなって。でも、今住んでいるところも知らないし、連絡先もわからない。ただ当時の彼はこのお店によく通ってたのよ。だから、このお店で働いてたら、もしかしたら彼に会えるんじゃないか。そう思ったの」
ふうん、と曖昧な返事をしながら、永島敏行の脳裏には昨日の中年男の姿が浮かんだ。ひょっとして美佐子さんの付き合っていたという相手はあの中年男ではないだろうか。彼は久しぶりにこの店に入ろうとしたのだが、美佐子さんの姿を認めて入るのをためらったのではないだろうか。もしかしすると、美佐子さんに会いたくなかったのかもしれない。
しかし、あの中年男と付き合っていたとしたら、あまりにも年が離れすぎている。美佐子さんは人に言えない恋をしていたのだろうか。「美佐子さんの昔の男って、どんな人なんですか」と聞こうかとも思ったが、あまりに不躾ではあるし、それに自分の予想が当たるのも怖くて、結局聞けなかった。そして自分が見た中年男のことも彼女には知らせない方がいいと思った。
「どう? あたしのコーヒー、美味しい?」
「美味しいです。マスターが淹れるコーヒーより美味しいです」
「よかった」
無邪気に笑う彼女を見ていると、昔の男などに会わない方がいいんじゃないか、そんな気もしてくる永島敏行だった。
それから一週間ほどアルバイトが忙しくて、永島敏行は「まつぼっくり」に行くことができなかった。美佐子さんが結婚すると知って、彼女への恋心が薄れてしまったこともあるかもしれない。しかし、彼女のことが嫌いになったわけではなく、しばらくすると再び顔を見たいような気もしてきて、彼は久しぶりに店を訪れた。しかし、店に美佐子さんの姿はなかった。
「あれ、美佐子さん、どうしたの。今日はお休み?」
と彼はマスターに尋ねた。マスターは心なしか萎れたちょび髭を歪めながら答えた。
「いや、もう辞めちゃったんだよね」
「どうして? まだ梅雨は明けてないよ」
「それがさ、三日前だったかなあ。突然、辞めさせてくれと言い出してさ。それっきり来なくなったんだよ。彼女がいなくなったとたん、お客さんも減るし。もう、一気に寂しくなっちゃったよ」
田舎に帰る予定が早まったのだろうか。しかし、それなら突然辞めることはない。ひょっとして、と彼は思った。
ひょっとして美佐子さんは昔の男に再会したのではないだろうか。あの中年男かどうかはわからないし、昔の男が店に来たのかどうかもわからない。ただ、どこかで昔の男と再会した途端、かつての恋が甦り、お店のことも田舎での結婚のことも放り出して、男のもとに舞い戻っていったのではないだろうか。それはあの無邪気な笑顔を見せていた美佐子さんには似つかわしくないような気がする。しかし、どれだけ彼女のことを知っていたのかと言えば、じつは何も知らなかったことに気付く。
美佐子さんにとって田舎で結婚した方が幸せなのか、昔の男とよりを戻した方が幸せなのか、永島敏行にはわからない。ただ、梅雨の間、鮮やかに咲いていた紫陽花が、一気に花びらを落としたような淋しさがあった。
店の入口にある傘立てに花柄の傘が一本残っている。それが美佐子さんの傘だと彼は知っていた。
「美佐子さん、傘を忘れていってるね」
「そうなんだよね。お給金もまだ渡せてないし。戻ってきてくれたらいいんだけど」
美佐子さんは再び、この店に戻ってくるだろうか。それは来月のことなのか、来年のことなのか、何年も後の話なのか。そのとき、自分はこの店にいるだろうかと永島敏行は思った。
「ねえ、マスター」
「うん、なによ」
「俺、マスターの養子にしてよ」
「なに、突然言い出すのよ」
「マスターが死んだらさ、俺がこの店を引き継ぐから」
「バカ言ってんじゃないよ。縁起でもないこと言わないでよ」
マスターはそう言って笑うと、頼む前からホットサンドを作り始めた。窓の外には今日も雨が降っている。梅雨はまだ終わりそうになかった。
2013年6月2日 日曜日

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