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僕が尾藤さんを見つけたとき

親愛なるサムへ
僕が尾藤さんを見つけたとき、尾藤さんは直径十センチほどの透明な球体の中に閉じ込められていた。ガラスなんだろうか、あるいは実際に見たことはないが、これが水晶玉というものなのか。曇りのない透き通った材質でできた丸い物体は、一人の小さな人間を封じこめたまま、古びたテーブルの上に畏まっていた。
「ポールが来てくれて助かったよ。誰も来ないんだもん」
身長五センチほどになった尾藤さんは、グレーの背広に青いネクタイを締め、黒革の鞄を手から提げたまま屈託なく笑った。客観的に見ればかなり困難な状況下だが、こんなときでも笑顔を見せられる尾藤さんは、やはり大した人だとも言えるし、どこか間が抜けているとも言える。ともあれ、最初に見たとき、何が起こっているのか僕にはよくわからなかった。
「いや、俺にもわかんないだよ。気がついたら、こんなことになっててさ」
体が小さくなっているせいか、尾藤さんの声も小さくなっているが、球体に閉じ込められているとは思えないほど、言っていることは十分に聞き取れた。そして自由に動き回っているところを見ると、その内部は中空になっているらしかった。
「でも、よくわかったね、俺がここにいるって」
「いや、わかんなかったですよ。この山小屋の前を通りかかったら、中から『おーい、おーい』という声が聞こえたんで、何だろうと思って入ってみただけです」
「え、ここ、山小屋なの。なんで俺、ここいるの?」
「こっちが聞きたいです」
「まいったね。で、ポールはこんなところで何してたのよ」
「山歩きに来たんですよ。それで道に迷ったんです」
「山歩き? ハハハ、おまえも暇だねえ」
この状況で一体何がおかしいのかはわからないが、とりあえず尾藤さんが元気だということはわかった。
尾藤さんはかつて僕が勤めていた職場の上司だった。といっても上司らしいことは何一つしていない。そもそもほとんど会社にいない。毎日、午前中には行く先も知らせず外出し、そのまま帰社しない。夜になるまで帰社しないのではなく、夜になっても帰社しない。次に会うのは翌日の朝だ。どこへ出かけているのかは誰も知らない。昼間から酒を飲んでいるという噂もあった。
そんな上司が嫌になったわけではないけれど、僕はその会社を辞め、今は他の仕事をしていた。尾藤さんに会うのは数年ぶりだろうか。こんな山小屋の中で、水晶玉みたいな中に閉じ込められているところを見ると、あいかわらずふらりと外出する癖は直っていないらしい。
「その中は寒くはないんですか?」
と僕は尋ねた。もうすぐ桜が咲くとは言え、山はまだ肌寒い。尾藤さんはコートを着ていなかった。僕が来たので安心したのか、胡座をかいてくつろいでいる。
「いや、とくに寒くはないね。ただ、俺さあ、一件行かなきゃいけない用事があるんだよ。ここにいるわけにいかなくてさ。ポール、悪いんだけど、ここから出してくれないかな」
用事がなくても、そこから出た方がいいだろうと思う。体の大きさも元に戻した方がいい。
しかし、見れば見るほど完全な球体というのだろうか。どこかに継ぎ目があるわけでもない。触ってみると、ひんやりとする。軽く叩いてみるとカツカツと鈍く固い音が響いた。試しに持ち上げてみようとしたけれど、手のひらに収まるほどの大きさなのにびくとも動かない上、転がることさえしない。一筋縄ではいかない相手だということがだんだんとわかってきた。
気がつくと、尾藤さんは鞄から茶色い小瓶を取り出して口に運んでいた。小さくてよくわからないが、瓶のラベルにはトランプのキングみたいな髭面の男性が描かれている。
「尾藤さん、それ、何なんですか?」
「いや、何、ちょっと喉が渇いてさ」
「まさかウィスキーとか飲んでるんじゃないでしょうね」
「しょうがないだろ。これより他に飲む物がないんだから」
「いやいや、ちょっとは協力して下さいよ。自分自身のことなんだから」
「だって俺にはどうしようもないじゃん。出口なんかないんだし」
まったく困った人だな、と思った。いつもこの調子なのだ。ただ、冷静に考えれば、頑張ってそこから出てこいと言ったところで尾藤さんにはどうしようもない。こちらで何とかしてやるしかない。
山小屋は六畳ほどの広さで、テーブルの他には壁に棚が括り付けられていた。何かの作業をする小屋のようには見えない。山で働く人たちが物置代わりに使っているのかもしれない。棚にはロープやブルーシート、いくつかの工具箱やのこぎりなどの仕事道具があり、木材の端材や薬品と思われる容器、古びたタオルや誰かが飲み残したウィスキーの瓶なども混じっていた。
僕は工具箱を引っ張り出して中を調べた。どうすれば球体から尾藤さんを救い出せるのかはよくわからないが、さしずめ水晶玉を叩き割ることしか思い浮かばなかった。工具箱から金づちを取り出すと、僕はテーブルに戻った。
「尾藤さん、ちょっと下がっててください」
「え、どうすんの? 下がれって言われても、底が丸いから下がりようがないんだけど」
「金づちでこの玉を割ってみますから。上着を頭から被って下さい。破片が飛び散ると危ないですから」
「大丈夫なのかよ」
「まあ、ちょっとやってみます」
真上から金づちを叩き下ろすと、割れた破片が尾藤さんに降り注ぐ怖れがある。僕は斜め上ぐらいに狙いを定め、最初は軽い力で慎重に水晶玉を叩いてみた。カンと乾いた音を立てて金づちは跳ね返された。
叩いた箇所を見ても、傷一つ付いていない。僕はさっきより力を込めて金づちを振るった。しかし、結果は変わらなかった。そうやって徐々に力を込めながら水晶玉を叩いていき、最後には渾身の力を込めて金づちを振り下ろしたが、やはりその表面には傷も付いていない。逆に振り下ろした右手がじんと痺れるばかりだった。
「ダメですね」
「まあ、しかたないね」
尾藤さんは頭に被っていた上着を降ろすと、もう一度袖を通した。そして再びウィスキーの小瓶を口に運んだ後、今度は鞄から何やら小袋を取り出し、細長いスティック状のものを食べ始めた。
「何、食べてるんですか?」
「うーん、何だろうね、これは。チーズ鱈というの? なんか、そういうもの」
「あの、大事に食べて下さいね。いつまで閉じ込められるかわかりませんから」
「わかってる、わかってる」
なぜ、ウィスキーの小瓶やチーズ鱈が鞄に入っていたかはあえて訊かなかった。それどころではない。とにかく叩いてダメとなると、他の方法を考えなければならない。
僕は再び棚に戻って、めぼしいものはないかと探った。のこぎりはあったが、さっきの様子では歯が立ちそうにない。ノミを振るっても無理だろう。そこへガスバーナーが目に留まった。なるほど、炎で焙ってみるという手はある。幸い、ガスボンベは装填されていた。火を入れてみると、ボーと青白い炎がノズルから出てきた。
「今度は何する気なんだよ」
「ちょっと火で焙ってみようかと思って」
「おいおい、大丈夫なの。俺、蒸し焼きになったりしないんだろうな」
「さっきみたいに上着を被って下さい。あと、炎を見ないように」
尾藤さんがいる方向を避けながら、球体の表面にしばらく炎を当ててみた。いったん火を止めて表面を触ってみると思わず指を引っ込めるほど熱くなっている。
「尾藤さん、熱いですか?」
「いや、この中は変わらないね」
熱を通さない材質なんだろうか。僕は思いきって火力を強めにしてみた。そして、さっきより長い間火を当てた。球体の表面は徐々に赤くなり、最後は水晶玉全体が赤い炎に包まれた。その炎の中で尾藤さんは背広を頭から被ったまま背中を丸めて胡座をかいている。ふと、尾藤さんも歳をとったなと思った。
ガスバーナーの火を止めて球体の表面を観察したが溶けている様子はなかった。僕は金づちを取り上げて叩いてみた。しかし、カツンと音を立てただけで凹んだりはしなかった。まったくお手上げだった。
「やっぱりダメですね」
「まあ、しょうがないね。ちょっとポールも休憩してよ」
再び上着に袖を通した尾藤さんは、今度は鞄を枕代わりにして立て膝で寝そべった。
「今日はどこへ行くつもりだったんですか?」
「うん、ちょっと色々ね、アレしてコレして」
「あのね、尾藤さん」
「何だよ」
「この水晶玉みたいなのは、何か精神的なものじゃないかと思うんですよ」
「何なの、精神的って?」
「つまりね、尾藤さんってそうやって自分の殻に閉じこもってるじゃないですか」
「そんなことないだろ。閉じこもってないよ」
「いや、自分の殻に閉じこもってるんですよ。ふだん何をしているのか、教えてくれないし。いつもはぐらかすし。そういう精神的なものが原因で、この水晶玉が出来ている。むしろ、この水晶玉はそういう自分の殻のメタファーなんですよ」
「何なんだよ、メタファーって。大体ね、いつも、おまえは複雑に考えすぎるんだよ。もっと単純に考えればいいの。俺が水晶玉に閉じ込められた。出られる方法が見つからない。ただ、それだけの話だろ」
それのどこが単純な話なのかと言いたかったが、しかし、仮にこれが精神的なものだとして具体的にどうすればいいのかはわからない。ふもとの村まで助けを求めてみるかと考えたが、叩いても焙ってもダメなものを誰かが来たからといってどうにかなるとも思えない。まさに八方ふさがりの状態だった。
山のどこからかウグイスの鳴き声が聞こえてきた。今年になって僕が聞くのはこれが最初だろう。鳴き始めのせいか、その声色はぎこちない。尾藤さんにも聞こえたらしかった。
「春だねえ」
「うん、春ですね」
「鶯の身をさかさまに初音かな、だな」
「芭蕉ですか」
「いや、芭蕉の弟子の其角だね」
尾藤さんはウィスキーの小瓶を逆さまにして、もう、酒もなくなっちゃったよ、ウィスキの身をさかさまにふて寝かなだ、と笑った。僕もつられて苦笑した。結局のところ、尾藤さんはどんな目に遭っていても尾藤さんなのだ。それからふと、ある考えが浮かんで棚のところに行った。
棚にはウィスキーの瓶があった。中身は半分ほど残っている。ラベルには四つの薔薇が描かれていた。昔、このウィスキーを作った男がある女性にプロポーズした。そして自分のプロポーズを受けてくれるなら、次の舞踏会でガウンに薔薇のコサージュを付けて来て欲しいと頼んだ。舞踏会当日、男が待っているところにその女性は胸に四つの赤い薔薇をつけて現れた。それがこのウィスキーの名前の由来になったと読んだことがある。
およそ今の状況にはふさわしくない可憐な話だが、それでも僕はウィスキーのボトルを手に水晶玉のところに戻った。尾藤さんは酔ってきたのか、鞄に頭を乗せたままうつらうつらとしていたが、僕の姿に気付くと頭を起こした。
「今度は何するの?」
「うーん、物は試しと言いますから、ちょっとウィスキーをかけてみようかと」
尾藤さんはさすがに呆れた顔をした。
「ダメなんじゃないかねえ。金づちでもガスバーナーでもびくともしないんだからさ」
「まあ、まあ、やってみようじゃないですか。上手くいかなくても害はないんだし」
今以上の災厄は考えられなかった。僕はボトルのキャップを外すと匂いをかいだ。とくに変な匂いはしなかったが、いつの物かわからないので飲んでみようという気は起こらない。それからボトルを傾けて、中身を水晶玉の上に注いだ。琥珀色の液体は球体の表面をゆっくりと滑っていった。
「中から見ていると悪い気はしないね」と尾藤さんは言った。「なんかゴージャスな趣はあるよ」
「しかし、特に何かが変化する気配もなく…」
「そりゃ、酒をかけたところで…」
と尾藤さんが言いかけたとき、球体がぼやっと白く光った。
「なんか光ったね、今」
「光りましたね。もう少しかけてみます」
球体はさらに白く光った。そして光ったり光らなかったりを繰り返しているうちに、ずっと光り始めた。こぼれ落ちた液体はテーブルの上を濡らしていたが、僕はさらにウィスキーを注いだ。その間にも水晶玉は光り続け、だんだんと明るさを増していく。とうとう直視できないほどになってきた。僕はボトルを置いて、思わず後ずさりした。
「尾藤さ…、聞こ…ますか。大丈夫…すか?」
「な…だって、よく聞こえ…んだけど。どうなっ…るの」
お互いの声が聞きづらくなっている。光はさらに輝きを増し、部屋全体を満たし始めた。もう、水晶玉の形も尾藤さんの姿も見えなくなっていた。僕は顔の前で手をかざしながら部屋の隅にじりじりと後ずさった。あまりの眩しさに息が苦しくなってくる。そして、もうこれ以上は耐えられないと思ったとき、光はすっと消えた。
部屋の真ん中には尾藤さんが立っていた。さっきの小さくなった尾藤さんではない。元の姿に戻った等身大の尾藤さんだった。
「出られましたね、尾藤さん」
「出られたよ、ポール」
よかった、よかったと我々は思わず手を取り合って喜んだ。尾藤さんとこれほど喜びを分かち合ったことはかつてなかった気がする。ひとしきり喜び合うと、今度は身の回りの点検をした。水晶玉はテーブルの上から消えていた。不思議なことに四つの薔薇が描かれたウィスキーのボトルもなくなっていた。
「鞄はありますか?」
「え、鞄? どこだっけ? あれがないと困るんだけど。ああ、ここにあった」
空になったウィスキーの小瓶とチーズ鱈の入った袋もどこかに消えていたが、我々はとくに問題にしなかった。
「一体、あの水晶玉は何だったんでしょうね」
「何だったんだろうね。まあ、いいんじゃない。とにかく出られたんだし。これ以上、ここにいても仕方ないから行こうか」
「そうですね」
山小屋を出ると、日が傾きかけていた。葉を落とした木々の間にオレンジ色の光が差し込み、気の早いカラスが寝ぐらに帰ろうと飛び去っている。小屋の前には一本の道があり、右手に行けばゆるやかに下り、左手に行けば山の頂に続いているらしかった。僕はふもとに戻ろうとしている途中でこの道に迷い込んだのだ。
「ああ、なるほど、この山小屋だったわけね」
「知ってるんですか?」
「うん、ちょっとね。ああ、ポールはもう帰るんだっけ。だったら、この道をまっすぐ下っていったら十分ほどで村に出るから。そこからバスに乗ったらいいよ」
「えっ、尾藤さんはどうするんですか?」
「俺はちょっとこっちの方に用事があるから」
と言って、山に登っていく方角を指さした。
「もう日が暮れますよ」
「いいの、いいの。気にしなくていいから。それより急いだ方がいいよ。次のバス、五時に来るから。今日はありがとね。また、どこかで飲もうよ。じゃあね、そういうことで」
矢継ぎ早にそう言うと、尾藤さんはさっさと山道を登り始めた。こういうときの尾藤さんにはとりつくしまがない。そうやって自分の殻に閉じこもっているからさっきみたいなことに、と思ったが、所詮、我々もまたそれぞれの殻の中、それぞれの水晶玉の中にいるのだという気もしてきた。我々は目には見えないその水晶玉の中から世界を感じ、他者と笑ったり手を取り合ったりしているのかもしれなかった。
尾藤さんは曲がり角の手前で一度だけ振り向き、僕がまだそこにいることを知ると、ニカッと笑って右手を挙げた。そして角を曲がっていくと、もう、そのまま山の中へと消えていった。それでも僕は遠ざかっていく背中、もう見えなくなった背中をその場でしばらく見送り続けた。
2013年3月15日(金)

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